東京高等裁判所 昭和35年(ツ)178号 判決
原判決の引用する第一審判決の事実摘示によれば、被上告人が本件異議の原因として主張するところは、上告人と被上告人間の市川簡易裁判所昭和三十一年(イ)第一九号家屋明渡請求和解事件について、昭和三十一年四月三日、上告人は被上告人に対し本件家屋を昭和三十四年四月二日まで三ケ年賃料一日金二百円の割合で賃貸すること、但し右期間満了の際は被上告人は本件家屋を明渡すこと、等の条項で即決和解が成立した。被上告人は右和解調書について本件家屋明渡の文言を記載することは承諾したが、該調書に基く家屋明渡そのものを合意した事実は全くないばかりでなく、上告人自らにおいても該調書による家屋明渡の強制権を放棄したものである。もし、上告人において本件和解調書にもとずき強制執行をなす真意なるにかゝわらず、これなき如く虚言を弄し被上告人を誤信せしめ調書を作成せしめたとすれば被上告人の本件和解の意思表示は上告人の詐欺によるものであるから、これを取り消す、というのである。
原審は右被上告人の主張する事実はいずれも認められないが、上記和解においては、上告人と被上告人間に賃貸借の性質を変更することについて明示又は黙示の合意が成立したものと認めるのは相当でなく、賃貸借は普通の賃貸借であり、本件和解における明渡の条項は借家法に違反し無効であると判断認定し、被上告人の本件異議を認容した。しかしながら、本件記録を精査するも、被上告人が第一審以来右のような本件賃貸借が普通の賃貸借であつて上記和解条項は借家法に違反し無効であるとの主張を明かになしたことを発見することができない。もつとも、原判決は、被上告人は本訴において第二回の和解調書は第一回の和解調書の切かえ又は延長に過ぎず、したがつて、現在においてもなお借家権があると主張しており、このことは全体としてみれば、上記判断の点に関する主張を含んでいるものと解することができると判示しているが、被上告人が右原判決の判示するような主張をなしたと解することができない。このことは左記の判示によれば一層明かである。契約は、特別の事情がない限りは、当事者はその文言通りの有効な契約をなしたと認めるを相当とし、殊に裁判上の和解は、たとえいわゆる即決和解契約であつても、裁判所が関与してなされたものであるから、無効な条項などは記載されていないと解するを相当とし、よほどの特別の事情が認められない限りは、その条項を全部有効と解すべきで、その一部の条項のみが無効であると解すべきではない。本件の場合においては、原判決は証拠によつて、本件和解契約をなすに至つた経過的の事情を認定して、その事情のみからして、本件和解契約は従前の賃貸借の性質を変更したものではないと推断しているのみである。しかしながら、右認定の事実だけでは、まだ上記の特別の事情がありともまだ認められない。また、上記のように、被上告人が明渡条項が無効であるとの主張を明かになしていないから、上告人もこの点についてなんの答弁をもなしていないし、さらに、双方ともこの点について十分の立証をなしていない。
これらの点を考えれば、結局、被上告人は本件において、本件和解調書による賃貸借契約は普通の賃貸借であつて、明渡条項は無効であるとの攻撃方法は、明示にはもちろん黙示的にもなしていないと解するを相当とするから、原判決は上告人主張のように、当事者の主張しない事由に基いて判断した違法があるといわなければならない。
(村松 伊藤 杉山)